桂離宮1

2014.12.25

ブルーノ・タウトは1933年、ヒトラーが政権を取ると、これをさけ青年時代より憧れていた日本に伴侶エリカと共にやってくる。当初の予定をはるかに越えて3年半を日本で過ごすが、日本も第二次世界大戦に向かって一歩を踏み出そうとしていた時代で、建築家タウトにとって日本では良い職はなかった。
タウトにとってふさわしい待遇を受けることもなく1936年10月15日にトルコのイスタンブール芸術アカデミーの教授として赴任するために離日する。しかしタウトを受け入れた建築家上野伊三郎らの奔走によって、来日の翌日上野夫妻の案内で桂離宮を訪ねている。日本の素材を十分に生かし、かつ簡潔な建物と庭園からなる空間が、自然と人間との調和をはかりつつ、かつ京都という伝統ある都市の景観とよく融合していることに感動する。
「涙が出るほど嬉しい」とも日記に書き「今日は恐らく私の一生の内で最も善美な誕生日であったろう」とも記している。
さらに伊勢神宮、大徳寺狐篷庵、飛騨白川の合唱造りの民家などに直接触れてその感を深めた。日本の伝統的建築、ひいては日本文化の本質に敏感に触れ、かつそれを正しく取得している。
タウトの興味の対象は単に建築ばかりでなく、民芸、キモノ、焼き物、香、生け花、文学、造園、日本の自然、と非常に広い。また自らの講演を元に著述にも励み「日本」、「日本文化の再発見」「日本文化私観」「日本・タウトの日記」などを著し日本人に自信と感銘を与えた。
丁度日本が太平洋戦争に突入しようという時代に日本文化を外国人によって褒められるというのは当時の日本政府にとっても具合の良いことであったに違いない。タウトの作品は文部省推薦図書となり当時多くの国民がこれを読んだ。
しかし読者はタウトの本職が建築家であったことを知らなかった場合も多い。単なる文化評論家くらいに考えていた同胞も多いはずである。しかしタウトは極めて短い1920年代に12000戸もの集合住宅をベルリンに完成させていたのである。

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